プチ・ムシューの思い出 vo.1
愛する山崎美幸画伯が逝って、もう1年になる。
高知市の画廊で遺作展が開かれると聞き、パリでの画伯の思い出などを書き記したくなった。
画伯と私の出会いは1975年(昭和50)、妻の陽子(洋画家)の実家に里帰りした時だった。
あと4、5日したらパリに帰るという段になって、陽子が
「こんな人を今度パリに連れて帰るからね」
と言う。 私はいつもの悪い癖(くせ)で深く考えもせず、「ああ、いいよ」と返事をしてしまった。
後日お会いして驚いた。 左足を引きずって歩いてくるではないか。
ご挨拶の握手をしようと私が手を出すと画伯の左手がすっと伸びてきた。
『 これは、まずい 』と思ったのも事実である。
何しろ右手左足の不自由な人をパリまで連れて行かねばならない。
しかも出来るだけ長くパリに滞在したいとのことである。
エライことになったぞ、というのが正直な感想だった。
70年来の猛暑で、2ヶ月以上雨が一滴も降っていないというパリに私達は到着した。
その当時住んでいたシャルトル(パリの南約100q)の家に画伯をご案内した。
次の日の朝、旅の疲れと時差ボケで少々遅く起きた私は
画伯を起こそうとして部屋をのぞいたが山崎さんの姿がない。
さあ、大変である。
西も東も、言葉も分からない山崎さんはどこへ消えたのだろう。
ベランダから下の道を見下ろしていると、
はるかかなたからステテコ姿で足をひきずりながら帰ってくるではないか。
部屋に入ってきた画伯に
「どこへ行ってたんですか、そんなステテコ姿で」
心配のあまり少し強い口調になった私に、山崎さんは 「エヘへ」と笑い
「タバコを買いに行って来たよ」。
私は開いた口がふさがらなっかった。
日本人で外国に来た次の日、ステテコ姿で言葉も通じぬ店で買い物が出来る人が何人いるかと考えて、
この人はひょっとすると、かなり純粋で大物ではないかと思い始めた。
ともあれ早速、私は迷子札を作り画伯の首にぶら下げてあげた。
大変に喜んだ画伯は以来、朝早くから夜遅くなるまで来る日来る日も外で絵を描き始めたのである。
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1976 7.13 Chartres